『一橋ビジネスレビュー』 2013年夏号

特集 市場と組織をデザインする ビジネス・エコノミクスの最前線

【特集にあたって】

一橋大学イノベーション研究センター准教授

楡井誠

政策研究大学院大学助教授

安田洋祐

チーフ・エコノミストという役職がある。世界銀行や米財務省といった場所だけではない。グーグルやアマゾン、マイクロソフトなど誰もが知るIT企業に、ハル・バリアンやパット・バジャリ、スーザン・エイシーといった、経済学オタクだけが随喜する名前が連なっている。この学者たちは、UCバークレーやミネソタ、ハーバードといった、経済学徒の目を潤ませる研究大学を飛び出して、ビジネスの実践問題に頭を悩ましているという。これら先端企業と一流研究者の間に、一体何が起きたのだろうか。

キーワードはITと「マーケットデザイン」である。情報化によって、企業を取り巻く市場の様相は変わった。というより、市場はもはや企業を取り巻くものではなく、企業が積極的に設計にかかわり創造していくものになった。そして、企業がウェブ上に市場を設計してみようと思ったとき、基盤となる技術は象牙の塔に用意されていたのだ。ロイド・シャプレーとアルビン・ロスに贈られた2012年のノーベル経済学賞は、市場の設計という新しいトレンドを象徴したものである。異質な人や企業が結びつきを求めて選択し合う状況をシャプレーは理論化し、安定なマッチングを導くアルゴリズムを示した。このアルゴリズムを使ってロスは、病院とインターンや、臓器提供者と受け入れ患者の効率的なマッチングを社会的に実装してみせた。抽象的なマッチング解のアルゴリズムが実際に「使える」ことを示したのは、大きな実践的インパクトを持った。

半世紀も前にシャプレーが、架空の競り人が「見えざる手」を振るうという抽象的な市場像から離れ、雑多に異なる市場参加者が特定の物理的・情報的プロトコルに従って経済交渉するもとでの安定資源配分を理論化したとき、例として示したのは企業と被雇用者が出会う労働市場であり、男性と女性が出会う「結婚市場」だった。当時だったら、まぁ結婚市場とははしたない、と皮肉に聞こえたかもしれない。しかし現在の日本では、結婚も就職と同様に、参加者がマッチング「活動」に勤しみ、仲介業者が大きな存在感を示す、立派な「マーケット」である。

インターネットを介して進められるビジネスが一物一価的な古典的市場像から乖離していく一方で、われわれの生活自体は「マーケット」から無縁になるわけではなく、むしろよりいっそう緊密に、形を変えて洗練された社会技術に包摂されているように感じられる。この技術作りに能動的にかかわっているのが、経済工学としてのマーケットデザインである。この技術は、効率的な臓器の配分を可能にして人命を救い、より良い出会いをより多く達成して人々の幸福に貢献している。この技術は、社会に有為をなそうとする企業の現実の力となりうるのである。

本特集では、マーケットデザインを1つの典型例として、ビジネス実践に直結するインプリケーションを持つビジネス・エコノミクスを紹介する。このタイプのミクロ経済理論は、社会や政策への実装も含めて、近年、進展著しい分野である。若手日本人研究者が多く活躍する分野でもあり、執筆陣はいずれもそれぞれの分野で世界の一線級と認められた研究者である。普段は数式でしゃべってばかりの執筆者たちだが、本特集では方程式は封印して、多くの具体例を使って語ってもらうことができた。最先端で活躍する理論家による論文は、わかりやすくありながら、背景に一般性と厳密な数理を備え、再読三読に耐える深みを持っている。

特集に収められた論文は大きく3つに分けることができる。安田論文と渡辺論文は市場のデザイン、花薗論文と中島論文は企業の価格設定問題、そして石田論文と伊藤・森田論文は企業組織のデザイン、におのおの焦点をあわせて論じている。

マーケットデザインの理論とビジネスへの実践

安田洋祐

経済学を使って市場を設計するとはいかなることか。周波数オークションや検索連動型広告、学校選択制度から合コンまで、社会に実装された具体例を用いてマーケットデザインの理論と実践を明快に解き明かす。ビジネス・エコノミクスになじみのない読者にもわかりやすい、とても親切な入門論文である。

仲買人とサーチ市場

渡辺誠

本論文は、売り手と買い手のランダム・マッチング問題を掘り下げて、小売り仲介業の本質に新たな光を当てる。在庫が持つ需要創出効果に注目し、仲介業が顧客に提供する付加価値、社会厚生への寄与、そして定期市から商業革命へと進化する経済への洞察が展開される。

抱き合わせ販売

花薗誠

多様なタイプの消費者を相手にする企業が、複数の商品をパッケージ(抱き合わせ)販売することによって収益を最大化する戦略を取り上げる。パッケージ販売のような複雑な戦略にも、漠然とした「シナジー効果」だけではない、一般的で実践的な最適ルールが見いだされる驚きがある。

行動経済学と産業組織論

(ナイーブな消費者と市場)

中島大輔

行動経済学の近年の知見によりながら、合理的ではない行動をとる消費者を相手にする企業の最適価格づけ問題に挑む。その舞台は、非合理人の極北=ギャンブラーたちが集うカジノである。価格づけという伝統的なトピックにおけるこれらの新しい展開には、実務家の耳に入れるに足る新鮮さがある。

人事の経済学

石田潤一郎

本論文では、ジョブ・デザイン(人事設計)におけるインセンティブ理論の実践的含意が概観される。一面的な成果報酬や相対評価制度の陥穽がわかりやすく解説され、よく設計された昇進制度が持つポテンシャルと、昇進制度設計の注意事項が論理的に導出される。

組織の異質性がもたらすインセンティブ効果

伊藤秀史・森田公之

同質的/異質的な企業文化という、経済分析には一見最もなじまなそうな問題に切り込む。メンバーの好みが似ている企業とそうでない企業では、その意思決定とパフォーマンスにどのような相違が生まれるのだろうか。メンバーの努力水準と仲間を説得するための情報収集活動を軸に、インセンティブという統一的観点からその問いの答えを導く。

各論文には、情報化と国際化によって変貌する現実経済の岸に立ち、論理の力でその変化に棹さしてみようとする理論家の好奇心と創造性が息づいている。その息吹が読者諸氏に届いて、新たなビジネスプラクティスを予感する一助となってほしいと願うものである。