楡井誠 (一橋大学イノベーション研究センター)

2009年9月

一橋大学広報誌『HQ』24号特集「決める」記事 著者最終稿

(テーマパークの数学者)

物理学者ならビー玉を手に取って、ボウルの内へりに押し当てながらいうだろう。私がこの手を放しても、玉がどこに行くか目をつむってたって分かる。ボウルの底で止まるから。だけどこうしてボウルを伏せて、頂上に玉を置くとどこに落ちるか、どんなに目をこらしていても分からない。

ところがカオス学者だったら、レザーパンツに身を固め、ジュラシックパークに行き会わせた古植物学者のやわらかな手をとって。「さあ、手の甲に氷水を一滴落としてみるよ。スーッ。腕のこちら側に落ちたね。じゃあ、同じところからもう一度試してみよう。どちら側に落ちるかな」「同じ方?」「スーッ。向こう側。ね、これはね、全く同じところから落としても、肌理のちょっとした荒れで」「荒れ?」「目に見えない荒れでね、水滴の落ちる方向がまるで変わってしまう。これが、これがカオス理論。」

複雑系ブームさなかの1993年にして脚本のシニシズムは冴えている。「あっ、こうして話しているときにも、ドクター・グラントは動いている車両のドアを開けて外に飛び出してしまう!これぞまさにカオス理論だね、おっと、すると君まで同じように出て行ってしまう、そして、そして私ひとり残されて、自分に向かってしゃべっている、これが、(人差し指を立てて)これがカオス理論。」実際、確固たる実証科学的成果を収める前に、森羅万象を解き明かすかのように喧伝されたカオス理論・複雑系科学は、聴衆を失った誇大妄想男の独り言とどう違うのか。

(荒野の決定論)

今日の状態Xから明日の状態X’への変換が力学である。胎児が骨盤にはまりこんでいくように、力学は単調収束的でありうる。連れ立って旅に出た瓜二つの男がかたや王様かたや乞食になる説話のように、力学は単調発散的でありうる。バネのように減衰振動もする。発散振動もするし、周期解を持つこともある。もしもボウルの底がでこぼこだったら、ビー玉はでこぼこ地面(rugged landscape)を走るラリー車のように、底のあらゆる点を経巡り続けるかもしれない。初期状態のわずかな違いが雪だるま式に増幅されながら(初期値鋭敏性)、無限遠に発散してしまうこともなく、周期的な解ももたない軌跡がカオスとよばれる。計算機の発達は、単純な力学系にそのような複雑な軌跡を生み出す広大な沃野のあることを明らかにした。

実証科学の方法論の上で、カオス力学は決定論的描像と確率論的描像の橋渡しをしたといわれる。カオス力学は決定論的システムでありながら確率的に見えるデータを作りだすことができる。実際、コンピュータの擬似乱数はそのように作られる。したがって、擬似乱数を作る力学方程式とそれにフィードされる初期値が分かれば、擬似乱数は予測可能だし再現可能である。これを自然現象に当てはめれば、従来ノイズとして扱われたデータも、その背景にある力学が発見されれば予測可能になることになる。もちろんカオス力学は初期値鋭敏性をもつから、初期状態の測定が有限精度ならば予測は短期的にしか当たらない。現象の力学が完全に解明されたとしても、予測システムにフィードされる初期値の微小な誤差が雪だるま式に増幅してしまうからである。天気予報が短期しか当たらないのはそのためなのだ。日食のやって来る日は100年先までわかっているのに台風の針路が明日をも知れないのは、気象学者にニュートンの天才がないためであるよりかは、ニュートンの扱っていた現象が予測を可能にするような種類の力学だったためである。

(動学の生成する静的な構造)

「静的構造+ノイズ」からなるモデルに対置されたとき、複雑系力学が明らかにするのはノイズの来歴だけではなく、静的構造の背後にある生成プロセスである。非線形力学は擬似ランダムなデータを生成することができるが、一方で長期的に安定的な法則性を生み出すこともできる。法則性とは時間・空間的な構造・パターンのことである。例えば、多くのカオス力学は特定の領域内の値だけを取り、完全な周期解ではないが擬似周期的な軌跡を持つ。これは例えば生物の概日リズムの解明に応用されている。多くの生物が恒常的環境でも24時間周期の生理現象を保持するが、3種類のタンパク質の化学反応力学でこれを再現することができる。また多くの力学が時間・空間的な自己相似性(フラクタル性)を生成する。これは例えば、乱流が大きな渦の中に無数の小さな渦を次々と生成していく現象の理解につながる。さらに無数の個体が相互作用する適応複雑系では、個体行動の広範囲な相関が観察される。例えば、温度が沸点以下から以上へ小さく変化するだけで水の分子は一斉に振る舞いを変えて液体から気体へ相転移するし、道路上の車密度の小さな増加が大渋滞を引き起こす。そして系の構成要素が分子であれ自動車であれ、マクロの相の転換点ではミクロの個体の相関に一般的な規則性があることが知られている。

静的な構造として観察される法則性をその背景にある動学にさかのぼって理解することには、単なる知的探求以上のどのような意義があるだろう。一つの答えは、それら現象に対する人間の操作可能性を増すことであろう。例えば、近頃よく行われている高速道路での様々な実験、トンネル入口の照明を明るくするとか微妙な上り道では看板で加速を促すとかは、渋滞流のような複雑な現象もある程度制御可能であることを示すだろう。もう一つの答えは、それら複雑現象に対して人間がもつ描像の変更を促すことである。これについて最もロマンティックに語られるのは、生命という主題である。生命とはある程度長期的に安定的な構造をもつ有機体で、その安定性は無数の化学反応の相互作用力学によって支えられている。いわく、生命は本質的に動的な現象で、静的な構造を描写しても生命は捉えられない。いわく、生命は本質的に全体的存在であって、器官や機能に要素還元されたものの総和としては捉えられない。云々。

(進化の描像)

少し目を転じて、生命の歴史である進化を考えよう。時空間上の種の配列を整合的に理解するのが進化論である。ある種が絶滅したのはそれが当時の生態系に不適応だったため子孫を残せなかったからだと考える。現在の種が生き残っているのには、それ相応の適応合理性があったためだと考える点で、進化論はしばしば目的論的に理解される。ママが算数できないのはパパの気をひくためにそう進化したのよ、とお茶の間を賑わせたりもする。

進化とは種が種の総体である生態系と相互作用して、環境に適応した種を残し不適応な種を淘汰する適応複雑力学系である。ジャガーの脚力からアリの隊列まで、生物の驚異のすべては突然変異と淘汰圧のすばらしい創造性を証明している。しかし複雑力学の初期値鋭敏性に見慣れると、足の爪からママの算数まで淘汰の死神の合理性が貫徹しているとは思えなくなってくる。一見したところ優越するものが必ずしも生き残るわけではない事例として、VHS対ベータのビデオ規格争いがある。実際、偶発的に発見される新技術が財の生態系と相互作用しながら盛衰するイノベーション史は進化系そのものである。技術的に優越したわけではなかったVHSが勝ったのはなぜか。一説によれば、レンタルビデオ業界がフランチャイズ化されたとき、VHSはすでに録画時間が長くビデオ一本でハリウッド映画を収めることができた。一方ベータは時期的にわずかに遅れた。フランチャイズは店頭の棚を節約できるVHSを選択してこれが規格争いの転換点となったという。

ビデオ史の真偽はともかく、適応複雑系ではささいな状況の布置の違いによって未来の軌跡が大きく変わっていく。適応複雑系の描像は、現在の静的構造の中に目的論的に見いだされた合理性ではなく、ただ生成の理合である。静的な構造を動的な生成から捉え直す批判は科学に常に内在する。進化論と並んで複雑現象を対象としてかつしばしば目的論的に理解される科学である経済学において、市場競争均衡では生産性の低い企業が淘汰され消費者に望まれる財が生き延びる。その描像の有用性は大学生活4年間の勉学に値する。しかし競争均衡の静的な構造を背後から支えているのは別の動学である。個別資本がrugged landscapeで角逐する適応複雑力学が、宿命的にハッピーエンドに帰するというなら、それは経済学を学び損なっている。逆に宿命的に破滅に帰すると主張する「資本論」は、市場取引の動学から析出される貨幣Mとその自己増殖力学M-C-M’から説き起こす。託宣の是非はともかく、その立論は静的構造の目的論的解釈を拒絶することから始まる。