イノベーションの回路を探せ

楡井誠 (一橋大学イノベーション研究センター)

JBPress 『イノベーションを斬る』2009年10月20日発表記事 校正前著者最終稿

成熟経済である米国の1世紀にわたるGDP時系列をみれば、それは坦々たる成長の軌跡である。むろん大恐慌と第2次世界大戦は大波を形成しているし、70年代の減速も目で確認できる。しかしおおまかなトレンドの安定ぶりは、たとえば個々の産業の盛衰の歴史と比べて、顕著である。いつの時代も鳴り止まない警鐘と悲観を超えて、米国経済の一人あたり実質所得は100年で7倍、年率2%台で成長してきた。

すべての国が安定した成長を享受できたわけではない。比較的所得の高い国であったアルゼンチンやベネズエラは所得ランキング上の相対的な地位を失ってしまったし、1960年には韓国と同程度だったフィリピンの所得は、30年あまりで韓国の3分の1になってしまった。トレンド成長率は小さな違いであっても長期間では大きな結果をもたらす。60年代以降の世界の経済成長率は2.25%だが、日本の90年代の成長率は1.5%に低迷した。もしこの低迷が続いたら、日本の所得は10年に7%づつ世界平均に落伍する計算になる。

災厄のような低成長に甘んじた国とうらはらに、8%もの高成長を謳歌した国々もあったことはご存知のとおりである。終戦後の日本や西独、70・80年代のNIES諸国、現代の中国などの高度成長は、資本労働比率が高度化したことで相当程度説明できる。これらの国では労働力に対して資本量が相対的に不足していたので、資本のリターンが高かった。高いリターンは速い資本蓄積を促して高度成長を達成した。やがて資本労働比率が先進国水準に落ち着くにつれて、高度成長も通常の成長率に収束していった。この資本蓄積のメカニズムに、教育水準の高度化を考慮にいれれば、東アジア新興国の高度成長はだいたい説明がつくとされる。

労働力あたりの資本装備が増えることによって経済が成長するという考えは、産業資本主義経済にとって自然である。またこの考えゆえに、経済成長の行き詰まりが懸念されもした。資本労働比率の高度化のみが成長の源泉であれば、先ほどのメカニズムによっていずれは資本蓄積が飽和して成長が止まってしまうためである。

ところが、高度成長経済ではなく、成熟経済の成長の源泉を調べると、資本蓄積の所得成長に寄与する割合は少なく、大部分は「全要素生産性」の伸びに起因することがわかった。日本経済もとうに成熟経済であるから、生産性の上昇によってしか成長できない。経済成長を加速するための政策として資本蓄積の促進から生産性の向上へと重心が移ったのはこの事実による。

しかし全要素生産性は、産出から労働投入と資本投入の寄与を除いた残差として定義されるから、「その他すべて」の入ったゴミ箱である。そこで生産性の中身、生産性を決定する要件の探求が始まった。投入と産出の関係を規定するのが生産関数だが、いわば「生産性の生産関数」へと関心が移ったのである。

「生産性の生産関数」のインプットはなにか?真っ先に挙げられたのは教育と研究開発投資である。教育投資は労働の質を高める。研究開発投資はよりよい生産手段を開発する。また、これら投入物には自分自身の機能を高める再帰的な効果があることも注目された。すなわち、高い教育はよりよい教育者を生み出して次代の教育効果を強めるし、研究によって生み出された知識はさらに新しい知識を生み出すことを容易にするだろう。

こうして経済成長のレシピとして、競争的市場の整備と並んで教育と研究開発の重要性が確立された。小泉首相の「米百俵」所信表明演説や科学予算の伸びを思えば、近年の経済政策の考え方を主導した構造改革政策・経済成長政策はレシピ通りであったことがわかる。

イノベーションとは、狭義には研究開発によって技術革新を起こし、生産性を向上させ経済を成長させるプロセスである。研究開発や科学技術投資の多寡や方向性は経済成長を規定する大きな要因である。イノベーションの現場にさらにクロースアップすると、しかし、そのプロセスはきわめて豊かな、「新結合」などとしか訳し得ないような活動である。そこで問われるのはいわば「「生産性の生産関数」の生産性」であるが、関数などと空威張りしたところであまり事態の理解に役に立たなさそうな複雑な過程である。

イノベーションが捉えがたい理由の一つは、その活動のリスクが高くきわめてランダムな現象だからである。しかし、純粋にランダムな現象だったらかえって分析はやさしいはずだ。例えば、かりに一人の技術者がブレークスルーを生み出す確率が1%だとしても、技術者間の成功確率が独立であるなら、1万人の技術者を雇えば大体いつも100くらいのブレークスルーが生まれるだろうし、2倍雇えば結果もだいたい2倍になるだろう。もしイノベーションが石油掘りのように誰にも予測できないような活動だったら、経済全体でみればきれいな規則性をもち、規模の収穫一定の生産関数とすらみなせただろう。

イノベーションの理解が難しいのはおそらく、それが組み合わせで起こるからである。10人の技術者と10人の経営者を組み合わせて10組の最適なマッチングを見つける問題と、1万人の技術者と1万人の経営者をマッチさせる問題との間には、超えがたい質的な違いがある。有限の組み合わせしかないのだからすべて試して数え上げればよい、と、数学者だったらいうかもしれない。前者の問題を抱えた人はこの答えに納得しても、後者の人は少しいらいらするだろう。

組み合わせ問題が難しいのは、カードが増えれば増えるほど組み合わせパターンが爆発的に増大するためである。究極の数え上げマシンであるコンピュータの力をもってしても、解決はしばしば容易でない。実際、最適なマッチングを計算するアルゴリズムの開発は、理論経済学の最先端の話題である。そのアルゴリズムに対応するような機能を、イノベーティブな企業や社会はなんらかの制度として内包しているはずだ。「「生産性の生産関数」の生産性」とは、そうした制度の働き具合のことである。

一つの図式では、イノベーションとは技術的シーズと消費者ニーズの組み合わせである。新技術だけが価値創造の源泉だとは必ずしもいえないが(モードの移り変わりを考えよう)、多くの革新的イノベーションが新しい技術シーズを背景とすることは確かである。一方で、商品価値の最終的な審判は消費者が下す。したがって、イノベーションを起こすには少なくとも、技術をよく知る人間と消費者をよく知る人間との協業が必要だろう。実際には両者の中間にさらにさまざまな層の知識があって、商品の開発を担うだろう。

多くのシーズと多くのニーズの間にさまざまな人がいて、お互いつながったり切れたり移動したりしながら、イノベーションという一本の回路を探している。人がランダムにつながるだけでは、回路をつなぐには膨大な時間がかかるだろう。それはいってみれば突然変異のみで進化を起こそうとしているようなものだ。ひょっとしたら神がかりな鳥瞰をもつ経営者が現れてその回路を示してみせるかもしれない。しかし神様を毎年生み出せるほどには我々の経営者生産技術は確かでないようだ。

イノベーションの回路をつなぐうまい社会組織があるのではないか、と我々は考える。簡単な例、軽石を考えよう。軽石には孔がたくさんあいている。孔が上から下までつながっていれば、この軽石は水を漏らす。ある軽石が水を漏らすかどうか、水につけずに分かる方法はないだろうか?孔の密度を計測すれば足りる。密度がある臨界値未満ならば、まず間違いなくこの石は水を漏らさず、それ以上ならばほぼ100%水を漏らす回路が存在する。こうしたことが言えるのは、本来確率的な現象でも組み合わせが無数にあるために集計すればほぼ確実な予測が可能になる場合があるためである。複雑現象に隠されたこのような規則性を探究する試みは、複雑系科学と総称されることがある。

シーズとニーズの図式に応用すれば、技術面と顧客面との中間層でのつながりを"make"するか"break"するかを決める社会的な臨界がある可能性がある。中間層でつながりを求める企業家の密度がクリティカル・マスを超えるだけで、個々の企業家がとくに神がかりでなくても、社会はイノベーションの回路を確実に見いだすことができる。イノベーティブな制度とはそのようなものだろう。

「「生産性の生産関数」の生産性」の向上を図るのがイノベーション学の使命である。かつて重商主義者は富(ストック)の最大化を図り、古典派経済学は年々の生産物(フロー)の最大化を図った。カイゼン運動から我々は、毎年同じように仕事をしているだけではダメで、常によりよく仕事ができるようにならなければならないこと、つまり生産性を向上させることを教わった。そして我々はイノベーション学とともに、資本主義の時間をさらにもう一階微分してみせるだろう。